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そこでもない、あそこでもない...それでも私はここにいる

  • 執筆者の写真: Joy Maki(真喜)
    Joy Maki(真喜)
  • 8月30日
  • 読了時間: 9分

更新日:9月14日

この文章は、以前書いた最初のブログの続編のようなもの。アイデンティティや可視性、そして私たちがよく生きている「ごちゃごちゃした中間地点」についての思考をさらに深めたものだ。


最初に伝えておきたいのは、「居場所を見つけること」は最終的なゴールではない、と私は思っている。何年も同じ場所にいれば得られるトロフィーでも、発音が完璧になれば与えられる勲章ではないと思う。私たち, TCKサードカルチャーキッズ、アーティスト、放浪者、パフォーマーにとって、「居場所」とは動き続ける的のようなもの。言語と文化、家と現場、その間に存在し、私たちがその境界にいるとき、静かに囁いてくるものだと思う。


これは悲しみの物語じゃない。 これは人生の舞台という居場所があるのだという物語だ。


内輪でもあり、外野でもあるという立場で育つと、皮肉なことに、パフォーマンスは「仮面」ではなくなる。それはむしろ、自分の「中間性」を翻訳する手段になる、自分自身のために、そして他の誰かのために。


「で、本当はどこ出身なの?てか君はなんなの?」

たぶん、誰でも聞かれたことがあると思う。笑顔で、あるいは好奇心から出た何気ない一言。でも、私の心に石が落ちるような感覚が残る。文化の間で育っただれにも、この問いには1000通りの答えがあるけれど、どれもしっくりこない。


私の場合、日本では「普通に日本人だよ」と言い、アメリカでは「日系アメリカ人だよ」と名乗っている。でも、おそらくそれは他人が私を定義する言葉ではないかもしれない。私は、アイデンティティが最も揺れやすい時期、つまり、幼少期から高校まで、日本で過ごした。

真喜の浜松での幼稚園時代
浜松での幼稚園時代

「アメリカ人すぎる」のか「日本人らしくない」のか、どちらにしても誰からも完全に受け入れられないと感じた時期があった。その痛み、どこに自分の居場所があるのかという、静かで深い疑問は、消えないけど、形を変えていく。


演技は、その曖昧さに名前を与えてくれた。衣装、キャラクター、脚本。それらが教えてくれたのは、どこかに無理やり収まる必要なんてないってこと。矛盾していても大丈夫。自分は「答え」じゃなくて「問い」でいてもいいということ。


語られない静かな流行病

ここからは、ちょっと個人的な話になる。日本にいた頃、正直な話をすると私は「こどもの自殺率」の統計に含まれていてもおかしくなかった。毎年増加しているあの数字の一つになっていたかもしれない。


特に小学校当時の私は、心の中では全く別の世界にいて、孤独で、外からなにも見えなくて、誰からも気づかれていないように感じていた。


存在しているのに、世界から追い出されたような感覚。小学生の頃、強すぎる意志を持った女の子として周囲から浮いてしまい、いじめられたり無視されたりした記憶がはっきりとある。「日本の女の子らしさ」から外れていた私。そして男子たちにとっては「こんな子、ありえないから排除すべき」という存在だった。


「触るな、話すな。あいつは病気だ。外人だ!」


私を形づくっていた全てが、受け入れられなかった。…その声は自分にとってさえも事実になっていった。


私は、「普通」の日本の女の子になりたかった。でも、そうなれなかった。だから、自分が問題だと思い込んでしまった。ハーフであることを嫌った。「君は絶対日本人として認められない」という誰かの言葉を信じ、自分であることが嫌だった。


存在したくなかった。排除されなきゃいけないから自分から消えればいいのだと思ってしまった。


神様は別の道を用意してくれた。私は、生き延びた。


でも、そうじゃない人もいる。


日本でもアメリカでも、私は若くして命を絶った友人やクラスメートを失ってきた。その喪失は、言葉にならない。国籍も文化も関係なく、誰の元にも突然訪れる。


特に、文化の狭間で生きる若者にとっては、「なじまなきゃいけない」というプレッシャーが、息苦しさを生み出す。


アジア文化圏の中では、「目立たずに溶け込むこと」、「周りに合わせること」が求められる。出る釘はうたれるでしょ?問いかけてはいけない。目立ってはいけない。


でも、今のアメリカでは、その真逆が求められる上に矛盾が存在する。

「同化しないで」と言われるけど、しないと「自身のルーツに恥を持っているのか」と問題視される。 「何でも疑っていい」と言われるけど、実際は「絶対に同意しなきゃいけないこと」がある。 「自信をもって目立て」と言われるけど、目立つと攻撃される。


やっても責められ、やらなくても責められる。


だからこそ、自己表現や創造性が許される空間、パフォーマンスや芸術の場は、ただの趣味なんかじゃなくて、生きるための避難所になると私は思う。

真喜の静岡での中学校時代 。
静岡での中学校時代 。学生証には生まれつき茶髪なのが記入されなきゃいけなかったのは今でも疑問。

舞台は、避難所

これは、冗談で言ってるわけじゃない。


私たちの多くにとって、舞台は「初めて、自分の存在を“みられた”場所」。誰かの娘としてじゃなくて。外見が違う子じゃなくて。外人としてでもなくて。


自分というひとつの存在、

声、

身体、

物語、

その全てが「存在していいんだ」と認められる場所。


大学ではクイ・グエンの作品「シー・キルズ・モンスターズ」のアグネス、シェイクスピアの作品「夏の夜の夢」のパックを。

卒業してからマーサー・フレジャーさんが監督した市民劇ウィリアム・ミズーリ・ダウン作の「Women Playing Hamlet」のアンサンブル役をさせてもらった。 


べレア大学時代の舞台
Agnes & Tilly- She Kills Monsters,  Berea College Theatre Laboratory

舞台後のスタンディングオベーション。それは、私にとっては演じた役への拍手じゃなく、「ここにいていいよ」という許可への拍手だったのかもしれない。


キャラクターをデザインしたり、衣装やメイクを通じて誰かの人生を表現したり、役として別の人の靴を履いてみるような体験。それは、自分を取り戻す行為でもあると思う。

ラベルがきちんと貼られている社会の中で、「見たことのない存在」として育った私たちにとって、それは反撃であり、癒しなの一つだと思う。


みんなはぶつかり合うはずの価値観や世界間が、何か新しいものを生み出す様子には興味はない?


真喜が参加した市民劇の舞台写真。
 Bike Messenger - Women Playing Hamlet- Little Colonel Playhouse

どこにも属さない力、TCKサードカルチャーキッズの魔法

どこにも属さず、でもどこにでもいた。それって、特別な力かもしれない。


「サードカルチャーキッズ(TCK)」はよく「適応力がある」と言われますが、それはつまり「生き延びるために形を変える力が必要だった」ということでもある。でもその力は、舞台の上でこそ、真価を発揮するんじゃないかと思う。


私たちは、そこの国の言葉だけじゃなく空気を読む。誰も言わなかったことを察する時もあれば言われて初めて失敗したことにも気づく。


そして、演技の世界では、それが何より大切。

一番印象に残る役者は、声が大きい人じゃない。小さな震え、仕草、間、目線、そういうものに気づける人。


「目立たないように」と言われて育った私たちにとって、パフォーマンスは「小さくなるためのもの」ではなく、「視野を広がるためのもの。」


逆に単一文化の人たちへ。

あなたたちの物語、ルーツ、伝統も、もちろん特別だと思う。

私自身、そんな「深く根を張った関係性や繋がり」にずっと憧れてきた。故郷、地域、家族の歴史に深く結びついた何か。それは私にはない財産。


そして、一生私には持てないかもしれない。でも、それでいい。私たちは、それぞれ違うからこそ価値がある。


存在が見られるということが、何を変えるか

2024年、私は「Ultimate Bias: Jpop vs Kpop」という映画に出演した。アイデンティティやメンタルヘルスをテーマに、そして「存在を初めて理解され、他からみられること」と「社会から求められる役を演じること」について描かれた作品でした。

そこにいた監督のマリさん、キャストも舞台裏方も、ただ才能があるだけじゃなくて、「心」があった。


居場所がないと感じてきた人たちが、自分のアートで新しい場所を築こうとしていた。私はその輪の中で、やっと「存在を理解されみられた」と感じることができました。

舞台裏の風景
シルヴァノ・マリ監督の映画『Ultimate Bias – Jpop vs Kpop』の舞台裏風景

私たちは、たくさん笑って、

アメリカの一般人にはあまり好まれないような和風な食べ物も一緒に囲んで食べて、

お互いの視点をぶつけ合って、

じっくり耳を傾けて、

言葉を訳し合って、

涙を流して、

そして、本当の意味でお互いを見つめあった。


その「みられた」感覚が、ずっと癒せなかった古い傷を、そっと撫でてくれた。

特に私にとっては、あの作品が「再生」そのものでした。


コロナで失った「パフォーマーとしての自分。」妊娠・出産でさらに遠のいた「自分自身」。その後の自分探しの途中で、この作品に出会い、救われ、癒された。


えっあれ?出産?知らなかった人もいるかもしれないけど、私は今、ちいさな人間の母でもある。自分の歴史や自身の中の葛藤を振り返りながら、それをどう次の世代に伝えていくか、日々模索中。この話も、またいつか。


もし、これを読んでくれているあなたへ

俳優じゃなくても、私たちは毎日”自分”を演じている部分があると思う。

服の選び方、言葉の使い方、どう人前に現れるか、人の目や意見をどう気にするか否か、それらすべてが「演じ方」。

問題は、「見えなくなるため」に演じているのか、「ちゃんと見られるため」に演じているのか。

舞台裏の食事風景
シルヴァノ・マリ監督の映画『Ultimate Bias – Jpop vs Kpop』の舞台裏 楽屋風景 Silvanomari Film

「居場所」は本当は場所じゃないかもしれません。それは「人」だったり、「少人数」かもしれない。瞬間かもしれないし。ほっと一息できる時。何かに夢中になるときかもしれない。


自分だけが理解できるPinterestのボードや、通勤中に救ってくれる一曲。そういう小さなものたちが、ほかの誰にもわからないけれど、あなたには響くものが、それこそが「居場所」かもしれない。


最後に

そして、もしあなたが、国の間で、文化の間で、カテゴリの間で揺れている人なら、これだけは覚えていて欲しい。


あなたの声には、意味がある。あなたの命は美しく、大切だと思う。 あなたの葛藤も、尊い。 あなたの「中間」は、欠陥なんかじゃない。神はあなたという人が欲しかった。


世界には、人生という舞台がある。


そして、あなたは自分のすべてを含め、そこに立つべき存在なんだと思う。この世にはあなたという存在は必要とされ、私はあなたという人が居て欲しい。絶対私が知らない何かをあなたが教えてくれるから。


追伸:

クローゼットの中で泣いていた幼かった真喜へ。

あなたを受け入れてくれる人たちに、いづれ、ちゃんと出会えるよ。

でもそれ以上に、「神さまがあなたをどう見ているか」を信じることを学ぶ必要があるんだよ。

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