はざまに生きるということ:ハーフの俳優としての私の物語
- Joy Maki(真喜)

- 3月27日
- 読了時間: 6分
更新日:9月14日
照明の熱、すでに回っているカメラ。そして私は、シルヴァノ・マリ監督の映画『Ultimate Bias – Jpop vs Kpop』で、自身のルーツと葛藤し、思い込んでる現実のあいだで揺れるキャラクター、クラッシュを演じている最中だった。
でも、少し皮肉だった。本当は何も演じてなんていなかった。だって、その葛藤はもともと私自身のものだったから。

ハーフって、文化や視点が2倍あって、得してるように見えるかもしれない。実際、そういう面もたくさんあるのは否定できないと思う。 でも、あまり語られないのが「どっちの世界にも完全には属せない」という感覚。 まるで、ひとつの世界に滞在しながら、もうひとつの世界のパスポートを持っているような気分。
もちろん知っている人もいるだろうけど、私は18年間日本で生まれ育った。
言葉で自己主張するよりも“空気を読む”ことのほうが大事だったのを覚えてる。もちろん学校ではKYで失敗したこともある。言い方ひとつで、意味が大きく変わる世界。言葉にしない美学。沈黙に意味がある場所。声に出す前に頭を下げて、言葉よりも「行間」を大切にする日本のそんな文化に育てられた。
そして、2015年にアメリカへやってきたわけだ。
ここでは沈黙が逆に怪しいと思われることもあって、人々は胸を張って、自分の意見をはっきりと口にする。 大きな声、大胆な表現、そして個人主義。 最初は戸惑いの連続だった(逆にそういう風に思ってたんだって日本人の友達からビックリされる。)
日本では「アメリカ人の父を持つ子」、「苗字が変な奴」として、 アメリカでは「静かで控えめな日本人の女の子」として見られた。 どこにいても、ちょっとだけ“違う”。 ちょっとだけ?いやかなり“浮いてる”。
だから私は、カメレオンになることを覚えた。
場の空気を読み、自分を調整する。 日本では、アメリカ的な個人意見はポケットにしまう。 アメリカでは、日本的な“間”を「思慮深さ」として使う。
でも、常に自分を翻訳し続ける感じ、何でもかんでも弁解する感じ、ものすごく疲れる。
そんなとき、私を救ったのが演技だった。

演技の中では、私の中にある矛盾は「直さなきゃいけないもの」ではなく、「強味」だった。
葛藤を全部を舞台のキャラクターに注ぎ込んだ。ほとんど説明はいらなかった。日本人らしさ、アメリカ人らしさ、 どっちかの片方を選ぶ必要もなかった。ただ、その瞬間に役の“真実”や“感情”を語ることができればよかった。
そして何より、「何かが多すぎる」ことも「何かが足りない」こともなかった。そこに“在る”こと自体が求められていた。心を動かせば仮面の向こうは誰であってもいいのかもしれない。
数えきれないほどの役を演じてきたけれど、正直なところ、「自分でない」ほうが楽なこともあった。「誰になってほしい?」と聞かれれば、私はその通りになることができたし、正直逃げ場でもあった。でもそれはまた、別の話。
ただし、誤解しないでほしい。アメリカ業界と日本の業界はまだ、私のような存在をどう扱っていいか分かっていないことが多いと感じる。
「日本人に見えない」と言われてアジア系の役から外される。 同時に「アジア人すぎる」と言われてアメリカ人の役も逃す。(アメリカだと「人種的にあいまい」は“良いこと”らしいけど、本当は条件付き?)ハーフって言ってもいいのと、そうでないものがあるらしい。それこそ、「残念ハーフ」って日本の言葉ある時点で、何かの勝手の想像上の期待を裏切ってんのがおかしいと思う。
はっきり言ってしまえば、私はキャスティングの世界がまだ整備できていない「ぼんやりとした中間の空間」に存在しているのかもしれない。
アメリカでは特に、「わかりやすいキャラタイプ」に当てはめようとする無言の圧力がある。-武道の達人、おとなしめの理系女子、日本的な芸者、無垢なヒロイン。
でも、スタジオジブリとディズニー、鋼の錬金術師とスパイダーマン、セーラームーンとプリンセス・ダイアリーで育った女の子の役はどこにあるの?ハーフの中でも純日本人に見えないから歴史ドラマや大河に出るなんてあり得ないって思われるのも心折れる。
そして、忘れてはならない「アクセント問題」…。
アメリカで「日本語アクセントできますか?」とオーディションで最初に聞かれること、何回あったか分かりない。どの方言よ? 米沢弁? 静岡? 標準語?それともアニメ風? それってステレオタイプの再現じゃない?日本だと逆に若干切れるフレーズ、「にほんごじょうずですねー」パチパチって手をたたかれ、喜ばれる。
自分のアイデンティティをコスプレさせられてるような、異常な違和感がある。
私の中では日本語が第一言語、英語は第二言語。だからスペルが苦手で、文法もうまくない。でもそれを言うと驚かれる。
一方でここ数年、日本語も日常的に話す機会が減ってきて、認めたくない部分もあった上で、少しずつ日本人の私が薄れていっている。
でもね、もっと現場に立つようになってから、気づいた。私だけじゃないってこと。
少しずつ物語は変わり始めている。
複雑で、多言語で、多文化なキャラクターが脚本に登場するようになってきた。そして、「あなたを見て、自分を見た気がする」と言ってくれる人たちが現れ始めている。若い子たちも、そして年上の先輩たちも、同じような“二重性”を抱えてきた人たちが。
2018年にルイビルのActors Theatreで観た、同じハーフのLeah Nanako Winkler作『God Said This』が私の中でもきっかけだった。
あのとき感じた、「あ、私、いていいんだ」というあの気持ち。今度は、私がクラッシュとしてそれを誰かに届けられたら、と思う。
だから、ダイバーシティは、単なるバズワードではないと思う。それは、自分を誰かの中に見つけられる瞬間。「私の存在は、システムのバグなんかじゃない」と気づける、その静かで力強い感覚のことを表せる。
ミックスの子どもたちへ、大人たちへ。いつも「自分を説明しなきゃ」と感じてきたあなたへ。ここでは、説明しなくていい。私もそうだったから。
「どこ出身?」と聞かれて、「いや、本当はどこ?」という多数の質問を嫌がる自分がいてもいいんだと。
でも私は今、こう信じています。理論じゃなくて、体感として。
私たちはハーフ=半分じゃない。
2倍のユーモア、2倍の視野、2倍の感受性、2倍の文化的流暢さがある。
2つの言語、2つの歴史、2つの国の祝日をつなぐ架け橋。それは欠点じゃない。それは力だ。

もちろん、混乱や喪失感、「誰にも本当の自分が伝わらない」って感じる孤独もある。でもそれがあるからこそ、人に共感できる。それがあるからこそ、いつも好奇心をもって世界に向き合える。
「居場所が欲しい」という気持ちは、
日本的でも、
アメリカ的でもなく、
人間的な感情だと思う。
今の私は、片方を抑えることなく、日本とアメリカの自分を両方持って前に出る。撮影現場へ。脚本へ。インタビューへ。キャスティングサイトの自己紹介へ。
だって、私がやらなければ、誰がやるの?
もし今これを読んでいて、あなたも「はざま」で迷っているならー
これは、あなたへのサインです。
あなたには、ちゃんと居場所がある。
選ばなくていい。
小さくならなくていい。
ただ、自分の物語を語ってください。
そして、もし世界にまだあなたのための役がなかったとしてもー
あなたが、その役を書き始める人なのかもしれない。
私は、ステージの両側から、あなたを応援しているよ。
愛をこめて
Joy 真喜





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